2011年に出された
旅行人No163号の記事(64ページ)を拝借します。
アゼルバイジャンとアルメニアの間で問題となっているのが、
ナゴルノ・カラバフだ。アゼルバイジャンの中のナゴルノ・カラバフ自治共和国はアルメニア系住民の多い地域である。アルメニア人とアゼルバイジャン人は、言語と宗教などの文化的な違いだけではなく、歴史的に反目し合ってきた。1987年になると、同地域をアルメニアに帰属させてほしいという運動が、ナゴルノ・カラバフに移住するアルメニア人から盛り上がり、翌年にはアゼルバイジャン人の排斥運動に発展した。それによって多くにアゼルバイジャン人が難民となって
バクーやスムガイドに避難した。
1988年2月、そのスムガイドでアゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃・略奪し、双方で32人が死亡する事件が起きた。これを気に、対立がいよいよ激しくなり民族間の紛争に発展する。アゼルバイジャンではアルメニア人が殺され、ナゴルノ・カラバフとその周辺ではアゼルバイジャン人が殺害され、
ナゴルノ・カラバフ紛争となった。
1990年1月、ソ連はアルメニア人の保護を名目にソ連軍をバクーに侵攻させ、約200人のアゼルバイジャン人を無差別に虐殺する「
黒い一月事件」が発生した。これによってアゼルバイジャンのソ連に対する不信感は決定的なものになる。ソ連解体後の1991年末、アゼルバイジャン、アルメニア両国とも独立を果たし、紛争は
ソ連の国内紛争から国際紛争へ様相を変えた。
アゼルバイジャンが反ロシア的な政策をとりはじめると、ロシアはアルメニアに対して10億ドルにのぼる違法な軍事支援を行った。これによってアルメニアが優位となり、1994年、ロシアの仲介で停戦に合意する「ビシュケク議定書」。ナゴルノ・カラバフは共和国として独立宣言したものの、国際的な承認は得られておらず「未承認国家」となっている。
現在では、アルメニア人側は、ナゴルノ・カラバフとのその周辺のアゼルバイジャン領を占領し続けており、その範囲はアゼルバイジャン領土の20%にあたる。(2016年4月3日)
AFPbbNEWS:ナゴルノカラバフで戦闘、少なくとも30人死亡 民間人にも死者